徳川家康の命により、京都の豪商・角倉了以が 富士川工事に着工した『富士川舟運』。 鰍沢河岸は、その拠点として甲府に次ぐ賑わいだったそうです。
鰍沢-静岡・岩淵の約72㎞を結んだ富士川舟運は、 まさに交通・流通の要でした。 そこから甲府盆地一円、陸路・信州往還を通り 信州の諏訪や高遠へと荷が運ばれました。
鰍沢からは、年貢米を載せ、江戸・蔵前まで下り、 空になった上りの船には、塩や藍玉、乾物など 山国・山梨にはない品が運ばれていました。
高遠で「鰍沢」と呼ばれていたのは…「塩」。 明治・大正の頃まで、塩を買いに行くと 『鰍沢ください』と言ったり、 味付けが濃いと「鰍沢が近い」、 味付けが薄いと「鰍沢が遠い」と言ったそうですよ。
明治時代、ワインの本場・フランスへ留学し、 その後のワイン醸造のパイオニアだった 高野正誠実と土屋助次郎(のちの龍憲)の二人ですが、 実は、もう一人候補だった『第3の男』がいたんです! それが宮崎光太郎でした。 しかし、父から「宮崎家の一人息子に何かあったら困る」と 猛反対され、夢は叶いませんでした‥‥。
民間で日本初のワイン醸造会社が解散後、 その設備や醸造器具を引き継ぎ、会社を始めた宮崎光太郎。 フランスに留学した土屋龍憲と共にワイン造りを始めます。 その後、経営者と醸造家 それぞれの立場から 袂を分かつことにはなりますが 宮崎はワイン醸造会社を拡大していきました。
新宿-甲府間の中央線開通により、 ワインの東京での販売、ぶどう狩りとワイン工場の見学を セットにした観光産業に力を入れた宮崎は 今の山梨の観光産業の草分け的な存在でもあります。
東京からのリモート中継で太郎ちゃんが紹介したのは 大好物♡の「サクランボ」‼ 以前、山梨に来れないため、取材でお世話になった 南アルプス市の沢登農園さんから旬の佐藤錦と紅秀峰を お取り寄せしました♪ これから、県内の様々なフルーツが実る季節がやって来ます!
バックナンバー