
放送内容のご案内 [やまなしを学ぼう!スゴろくのすゝめ #4(6月16日)]
信州・高遠で 「鰍沢」と呼ばれたのは…
高遠で「鰍沢」と呼ばれていたのは…「塩」。
明治・大正の頃まで、塩を買いに行くと
『鰍沢ください』と言ったり、
味付けが濃いと「鰍沢が近い」、
味付けが薄いと「鰍沢が遠い」と言ったそうですよ。
明治・大正の頃まで、塩を買いに行くと
『鰍沢ください』と言ったり、
味付けが濃いと「鰍沢が近い」、
味付けが薄いと「鰍沢が遠い」と言ったそうですよ。
ワイン醸造のパイオニアは、本当は3人の予定だった⁉
明治時代、ワインの本場・フランスへ留学し、
その後のワイン醸造のパイオニアだった
高野正誠実と土屋助次郎(のちの龍憲)の二人ですが、
実は、もう一人候補だった『第3の男』がいたんです!
それが宮崎光太郎でした。
しかし、父から「宮崎家の一人息子に何かあったら困る」と
猛反対され、夢は叶いませんでした‥‥。
その後のワイン醸造のパイオニアだった
高野正誠実と土屋助次郎(のちの龍憲)の二人ですが、
実は、もう一人候補だった『第3の男』がいたんです!
それが宮崎光太郎でした。
しかし、父から「宮崎家の一人息子に何かあったら困る」と
猛反対され、夢は叶いませんでした‥‥。
その後の山梨のワイン産業に大きく貢献
民間で日本初のワイン醸造会社が解散後、
その設備や醸造器具を引き継ぎ、会社を始めた宮崎光太郎。
フランスに留学した土屋龍憲と共にワイン造りを始めます。
その後、経営者と醸造家 それぞれの立場から
袂を分かつことにはなりますが
宮崎はワイン醸造会社を拡大していきました。
その設備や醸造器具を引き継ぎ、会社を始めた宮崎光太郎。
フランスに留学した土屋龍憲と共にワイン造りを始めます。
その後、経営者と醸造家 それぞれの立場から
袂を分かつことにはなりますが
宮崎はワイン醸造会社を拡大していきました。
観光産業の草分け的存在
新宿-甲府間の中央線開通により、
ワインの東京での販売、ぶどう狩りとワイン工場の見学を
セットにした観光産業に力を入れた宮崎は
今の山梨の観光産業の草分け的な存在でもあります。
ワインの東京での販売、ぶどう狩りとワイン工場の見学を
セットにした観光産業に力を入れた宮崎は
今の山梨の観光産業の草分け的な存在でもあります。
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